何か書け

書いた

10/12日記;『明るくていい部屋』読後に


予約購入していた金川晋吾著『明るくていい部屋』が届いた。
出掛ける前の珈琲のお供にと手に取ったら、そのまま一気に読み耽ってしまった。


金川晋吾という写真家の存在を知ったのは、一年半ほど前、思いつきで藝大博論を読み漁っていたときだった。
河原町丸太町の誠光社で金川晋吾著『いなくなっていない父』を偶然見つけたとき、写真作家が対象との関係を語るというのはどういうことなんだろうと思って、その場で衝動買いをした。製本がキチッと頑丈で綺麗な本だな…と脇目を振りながら開くと、自分が知らなかった家族との向き合い方が書かれていて、その正直な文体と写真に強く惹かれた覚えがある。

それから少し経った頃、自分は家族、祖母や両親を撮影することに挑戦していた。高齢の祖母が生きている様子を撮っておきたい、記録したい、という思いが最初にあった。だけど、当時は影響もあってか、もしかしたらこれが作品になるかもしれないという下心がどうしても頭をよぎってしまうことが嫌だったのと、家族に不快な思いもさせてしまって、途中からうまくいかなくなっていた。
当時の自分はかなり焦っていて、何か作品を作らないと話にならない、写真を撮るなら物事の表面をなぞるだけじゃなくて、もっと奥に入っていかないといけない、だからとにかくやってみるんだ、という漠然とした動機で動いていて、そういう青さは今でも持っているし、失敗にも同情できるけれども、自分の悪癖、自分が身内と思っている相手に対して甘えすぎてしまう、独りよがりの思いを平気で押し付けてしまう幼さのせいで、無遠慮なカメラの暴力で相手の尊厳を傷つけてしまったことが、ショックでならなかった。

そういうことだったので、身内である他人の身内にしか見せない姿や、生活の様子、日常の生き様を写すことに強い抵抗を抱くようになってしまっていたのだけど、以前よりむしろ渇望するようにもなっていた。親しい友人と会うと何かにつけ撮りたくなるし、他人の生活をもっともっと覗いてみたい、同居人の目線から、その人が何にこだわって、何を感じながら生きているのか知りたい、と思うようになった。
そこに流れてきたのがこの『明るくていい部屋』刊行の知らせだった。表紙や本文サンプルの写真に目が奪われた。そして3人の「家族のような」関係に興味が湧いた。というのも、自分も一度ポリアモラスな関係について考えたことがあったからだ(今よりもっともっと幼い、十代の頃の話だけど)。とにかく、これはすぐに読みたい、いま手に取るべきだ、と思い、痛む懐をおさえつつ、すぐに予約したのだった。

 

本の内容は、紹介されている通り、三人、そして四人での共同生活を写真と文章で綴るドキュメンタリー。写真も文章も結構なボリューム。写真パートは三人が同居を開始する頃から始まり、四人目を迎えて今年に至るまでの約5年半を時系列順に進んでいく。写っている人たちほとんどが穏やかな表情をしていて、翻って撮影者も穏やかな目線を向けているように感じられる。金川さんも含む色々な組み合わせで写っていて、リビングの円卓にいつもカメラが置かれている様子から、彼らが普段からお互いを撮り合っていることが序盤からわかった。自分は撮ることも撮られることも大好きなので、のびのびフリーダムな一人暮らしを満喫している今も、自分の生活の写真があまり無いことがさみしいし、そのあたりの感覚が一致する者同士で出会えていることを羨ましく思う(撮られることの喜びについて、同居人も頻繁に生活の写真や映像を撮っていることについては文章パートでも触れられている)。

光あふれる写真群は、幸せそうな暮らしの穏やかな一面だけを切り取っているけれど、もちろん衝突が無いわけはないようで、文章パートには、他人と同居することに付きまとう苦労についても具体的なエピソードとともに描かれている。食事担当の決まり方や各々の特性、他者への配慮の意識について感じていることなど、金川さんの視点から語られていて、そういう苦労をいつかこれから経験するだろう自分にとっては少し勉強にもなる。それぞれから始まった人間関係の、女男男の共同生活を経てひとつの関係に落ち着いていく様子が、字義にはまらない表現を模索する過程も交えながら飾りなく綴られていて、まっすぐな気品を感じるし、写真と文章を往復するドキュメンタリー大好き…という形式的なところへの好みは置いておいて、この人たちや繰り返される暮らしの存在を、そこにある価値観も含めて、強く肯定したくなる本である。

「私が誰かと一緒にいることを模索しようとするのは、私のなかにさみしさがあるからだ」。書籍紹介文にも引用されているこの一文に強く共感する。だけど、共同生活なんて想像するだけでもう、今の幼い自分にはできる気がしない。同時に、やってみないと変われないから、とりあえずやってみたい、とも思う。
自分は、自分自身のことをもっと深く知りたいし、自分をもっと自由に表現できるようになりたい。そのためには、なんとなく、具体的な他人と出会うことで自分の望みを具体的にしていくしかないと思っているし、これはちょうど金川さんの言うこととも一致するから、きっとそうなのだと思う。これから自分がどう生きてどう変化していくのか、今ある望みは叶うのか、いつも楽しみ半分・不安半分だけど、どこにだって道はあるみたいだし、まあなんとかやってくれ自分。そう思わせてくれた。

 

土曜の昼下り、カーテンの隙間から強く差し込んでいた陽射しもいつしか傾き、やわらかい光が部屋を包みこんでいましたとさ
すっかり秋ですね
おわり

途方もねえなぁと思ったときこそ、

──でも どうか諦めないで
だって 僕たちはまだこの世界に産まれてはいない
荒れ放題の庭で全部の催しは終わっていない
永久に続く寝息のような 優しい象の背中
美しいものは巧妙にカモフラージュされている
かけられた巨大な布
大掛かりな手品が始まる

JFK空港」People In The Box 

僕たちはまだ、この世界に産まれてはいない。そうなんすよ。まだまだこれからなんすよ。おれが思う美しいもんって何じゃろか、わからんまんまやけど、全てがやり尽くされたように思えるこの場所で、この身体をもってして、価値ある何かを見つけ出す、そういうシナリオもあっていいはずだよなあ、……

 

***

年が明けてからというもの、少し離れたとこの同期達から届く近況は、就活真っ只中だとかドクター進学に向けた申請書類を書いてるとか、もっぱらそんな感じ。周りの同期達は、休学してフィールドにもっと深入りするとかとりあえず海外出てみるとか言っていて、修士2年で出ることだけ決めている身としては想像したことも無い有意義な一歩をこれから踏み出そうとしている。

自分はというと、ちっちゃい原稿とただの期末レポートになぜか心身を蝕まれ締め切りそのもののストレスで左肩首顎歯を破壊したり、引き籠もってただ毎日ぼーっとしながら36時間周期で寝起きしたりしつつ、振り返るとなんやかんや本読んだり撮影編集の機会貰って失敗して学習したり、もうすぐ入部6年目になる写真部の展示に出展するためにプリントしてまた同じ失敗したりと、向上心と惰性の狭間のなんかよくわからない液体をパワフル稼働理論値の1/3くらいの出力で日々垂れ流している。

 

先週末は会社概要説明会というものに参加していた。大組織の中で働くのも案外楽しそうかもしれん。希望職種で採用されるためにはまたすごい競争があるだろうけど、いっちょ戦ってみっかという気持ちがようやく少し生えた。何より、学部生の頃は忌避していたこの未知の競争が、今じゃ少しだけ面白く思えてきている。専門学校や美大の卒業生と渡り合うために、現環境を最大限活用して独自の武器を拵えること。そんで無理だったらどこかでちゃっと稼いで専門学校入り直せばいいや、くらい気楽なノリで。前向きでとてもよい傾向です。

自分の場合、本業としてやり込む対象とかなりたい自分像とかって、0から見つけたり思い描いたりできるものでは全くなくて、いくつかある現実解の中からノリでえいやと決め打って「おれはこれをやる」を各所で言いふらして自分騙してがむしゃら進んだ先にひょっとすればあるかもしれないものらしい。そういうことを考えていた。研究テーマやなりたい職業への道が現状ぜんぜん明るくないことを悲観しながら。フィールドで活動したあと疲れ果てて乗り込んだ数日前の新幹線の中で。
悲観してもやると決めた以上はもはや逃げ場は想定できない。苦しみつつやり抜くしかないので頑張りましょう。逃げ場、実際にはいくらでもあるから、贅沢で自虐的で嫌な苦しみやなぁって感じだけど。まあやっていきましょや。やってみないとわからないことが沢山ある。はあ

***

 

写真論を乱読してたら、僕は今までどれだけ無知のまま気取っていたんだろう、今も全然何もわかってない、まだ何も語れない、ちんちくりんだぁすっからかんだぁうわぁと焦りが燃え始めたので、JFK空港にダイバードを行い、深夜の茶で身を修繕しながらこの記録をつけている。

才能は諦めよ。大器晩成を信じ手を休めず試行錯誤し続けよ。
こんなにアツくなれるってことはまだこの世界に産まれてさえいないほどに初心者ってことなんすよベイベ^^はあ

 

この一週間、写真家さんの事務所にお邪魔したり、フィールドで出版会社の編集の方とお話ししたりした。携わり方には本当に色々な形がある。今は無理矢理絞ろうとせず、興味が向くことを色々やってみるスタイルを続けるのが良さそう。
秋に撮ったやつ編集難航してて最近ずっとストップしちゃってるけどそろそろやる。
あと前にここで書いてたポートフォリオサイトは現状作ってもコンテンツが全然足りないのでしばらくはインスタをメインにする。
2月末まで奇跡的に暇ができてしまい何してやろうかと図りつつエネルギー足りなくて決めあぐねてたら先生との話のノリでこの期間で学会発表梗概作ることになった。これまた決め打ち。十分な分析できる気がしないけどやるしかないのでやってやる。

 

───

内向スイッチが入ったときの自己分析には昔から多少の自信があるけど、いくら理屈がわかってても感情はコントロールできないみたいなので、せめて何かで活かせる場面を作りたいなぁ。
例えば就活とか…

youtu.be

年が明けてけっこう経ったので、

時間のある時にやろうと思ってる色々なこと、時間ができても一向にやれず停滞していることをとりあえず書き出していく。疲れてるときは素直に休みたいし無理矢理動いてもしんどいだけだよなと思いつつそろそろ鞭打ってやらないとまずいし甘えすぎてると思う。

 

  • ホームページ再構成

去年の春に一念発起して作り上げたホームページ兼ポートフォリオサイト<Picturesquecat Portfolio Websiteを作り直したい。作ってからまだ1年経ってないけど既に今の自分とのずれが激しすぎて自分でも見るのが怖い。

春、思い返してみるに、当時はとりあえず形から入ろうと、これまで作ってきたものを並べてステートメントをつけて作家性を出そうとした。開き直ってなんでもやってみよう、稚拙でも繰り返し発表してブラッシュアップしていこう、という方針をとった。完全に躁ですね感あるけど、ひとつ大きな理想を実現したいと(恐らく初めて)決心してまず生来の完璧主義から脱却できたのは大きな意味があった。コンペやらオーディションやら複数出した。急いでホームページを作った。

夏、手持ちの古い機材の縛りからも一度解放されたくて、色んなジャンルに挑戦してみたくて、新しいカメラを買った。レンズもある程度困らないように揃えた。ただでさえクソデカ借金暮らし(貸与型奨学金)なのになけなしの貯金も使い切った。そしたら当然思い通りの画が作れなくなった。使いこなせるようになるだけで半年弱かかった。最近ようやく、自分がどんな画が好きで、どうやったらその質感が出せるのか、機材の特性に頼らずとも作れるようになってきた。無敵メンタルでオリジナルしおりとか名刺とか作った。

秋、それまで出したコンペ類の結果が出切って、想定通り箸にも棒にも掛からなかったことにある意味安心した。一時期はインターネット写真界隈(凄い人がいっぱいいるし日夜参考になるノウハウが投稿されててためになるが、大人たちが顔も名前も出してちっちゃな権威を振りかざしてる様子が幼稚に思えて嫌い…アカデミズムの権威性に毒された卑屈脳が受け付けない。おれこそ幼稚)にどうやったら潜り込めるか考えたが、あまりにも力量不足なので気にせず地道にやることにした。大学院の研究がめちゃめちゃ忙しかったけどサークルのライブの写真をどう撮るか試行錯誤したりしていた時期だった。とあるオーディションの講評が返ってきて、量で勝負する作品を出してたんだけど、審査員の方が「僕も同じコンセプトで君の倍の量集めた作品作ったことあるから気持ちがわかるよ!」みたいなことおっしゃってて、敵わないなあと思った。

冬、友人のライブイベントのカメラマンに立候補してみたり、好きなライブカメラマンの展示を見たり、MVディレクション一緒にしようと知り合いづてに誘われたり(まだ話は進んでいない)して、自分は音楽趣味を写真に結びつけることが武器になるんじゃないかと思い始めた。まだわからない。写真評論文や作家の本を何冊か読んで写真表現について少しだけ視界が晴れた。新進作家の展示に行って衝撃を受けたりもした。

 

はっきり言ってかなり焦っている。何事も遅すぎることは無いと言うが自分は行動も学習も遅すぎると思っている。ド平凡。焦りが行動のエネルギーを奪っている。行動したくても周りとタイミングが合わずなかなか進めないこともある。周りが就活を始めて既に内定取ったりもしている。フリーターならフリーターで生活していけるわみたいな呑気な自信も消えそうになっている。躁ブーストが終わったせいと考えたら絶望だけどダニング=クルーガー効果曲線の底にいるのだと思えばまだ希望がある。進歩していると思いたい。

それにしてもどうやったらあんな面白い画が作れるんだろう…発想がすごい…いや、何事も模倣と差異から価値が生まれることはわかってる、模倣から始めよう…何しよう…力出ないやでもやらなきゃ…ひー向いてないかも……それなら早いこと就活しないと食いっぱぐれる…いや、人巻き込んだり巻き込まれたりするのは得意だから、何かしらのアクションは起こし続けられるはずだし、この一年もそうしてきたはずだ、やれる!諦めたくない……

 

なんか初っ端からこの1年の写真に関する振り返りみたいになってしまった。書き始めの趣旨何?

残りは言うに及ばないかもしれない。大学院生の本分の諸々をやらないとまずい。春には論文一本完成させたい。小生に於かれましてはこんな弱音を吐く時間があったら行動していただきたいものですねほんまにな

 

冬晴れの陽射しで暖まりながら書いてたらいつの間にか暗くなっていた。明日もこんな天気であってほしい。

youtu.be

良いデジタル写真、っていうか、

見入るに相応しい価値のある画像データを作りたい、と本気で思い始めたのが2023年で、 例えば地域の魅力発掘とかライブフォトとかはちょっと経験して、ちょっとはそれっぽい質で出力できるようになり始めたと思う…思いたい、それはそれとして、自分の軸、個性、既存の文脈に依らない場所で感じられる価値はまだ無くて、降って湧いてこないならば努力して獲得する他無い。 かなり頭抱える。苦手分野だと思うから。音楽とかでも手を出しては引っ込めてきてしまっているから。

2023年はまず無批判なストリートスナップ信仰を捨てる年だった。丸一年かかった。スナップフォトには歌声と同じように、撮り手の個性が宿り、見せ方ひとつで容易に伝達できるものだと信じ込んでいた。甘すぎた。daydreamだかfragmentだか、もはや手垢まみれで寒気のするター厶を使いまわし、作品とか銘打って自己満足していた。

スナップフォトに撮り手の視点…行為…魂…が宿ることは確かに認められている。でも自分のそれは個性と呼ぶにはあまりにも没個性的で、技術も全く不完全なものだった。カメラの魔法;その場に居ることと写さないものを決定すること、大まかにその2つの操作だけで風景を自分のものにしてしまえる写真機の魔力に取り憑かれて、長いことただ自己満足に浸り続けていた。 いい趣味すねカメラって

 

今や、この盲目的な営みは真の満足に届かなくなってしまった。オートマチックにスナップすることはやめんが、それはただの手慰みでしかない。 目指すべきは画像ファイルから滲み出る個性の獲得、新しい価値の創出。困った。この記事の先頭に戻る

要は一流の人ってやっぱ強い一枚絵作るしコンテストとかの土俵でもくそ強いから、自分もそういうのに挑戦する年にしよう、ってこと なんかようやく新年のやる気出てきたな